2012年6月27日水曜日

羽鳥ダムになるまで(その1)








現在の福島県西白河郡から岩瀬郡にわたり「行方野」といわれた原野だった矢吹が原。明治時代は宮内庁の御猟場として、戦中は陸軍の飛行場として利用された時代もあった。

今でも矢吹町内の大池公園付近や矢吹中学校付近にその様子が垣間見れる場所が残っている。

特に、大池公園の入り口にある「雉子塚」に当時の様子が浮かぶ。この「雉子塚」であるが、書は「光永星郎」とあるが電通の初代社長である。お得意先を連れて伺った様子も社内資料に残っているとも聞いたことがある。


長年旱害などの凶作などに悩んでいた矢吹ヶ原台地は荒れてやせていた原野だった。時折「水争い」により血を流して水を争う事件もあったそうだ。


近隣の郡山が安積疎水により大きく発展していったのもこのころであろう。オランダ人技師ファン・ドールンのもと、1879年(明治12年)より5年の短期間で安積疏水を開通させ、当地を一大穀倉地帯に変えた。


矢吹町大和内の庄屋の次男として生まれた星吉右衛門は、安積疎水明治18年「西水東流」を構想した。「西水東流」は会津側に西流する鶴沼川を羽鳥村四日原で堰止め、水流を充満して矢吹ヶ原へ東流するという構想だった。この構想は多額の費用などの問題があったようで、すぐに実現することはなかった。

(矢吹町webサイト、矢吹原土地改良区サイトより一部抜粋しました)

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