2016年7月21日木曜日

戊辰戦争と天栄村 出典:天栄村観光協会(役場産業課内)より

戊辰戦争と天栄村

戊辰戦争と天栄村
会津軍は戦場を白河に設けるため、慶応四年閏四月二十日払暁、白河城(現小峰城)を急襲して白河城を占領し、迎撃の拠点としたが、五月一日に西軍の総攻撃に遭い、会津軍は敗北し、白河の向寺・桜町・登町に放火して、会津に引き揚げて行った。白河口で敗れた会津軍は、白河街道羽太を経て羽鳥に至り、会津へ引き揚げている。この方向での会津の守りは、①白河街道から羽鳥・湯本湯の上を経て会津攻撃に出るだろうとする説、②羽鳥の大平から黒澤・安藤峠・二幣地を経て、会津東山に通ずるとする説、③羽鳥の太平から更目木・馬入峠を経て福良に出するとする説、④白河又は須賀川から長沼を経て、勢至堂峠を通って会津を攻撃するだろうとする説があったという。いずれ羽鳥の大平は通過の拠点となるので、大平口の防御が重要であるとされていた。①~④の路線のうち、②、③は安藤峠、馬入峠があり、道も狭いので官軍の通過は無理であろう。あえて通過するとすれば、やや平坦な②であろうということから、安藤氏をしてこの筋の防御にあたらせることになった。④は街道も良く会津への最短距離でもあるので、官軍通過疑い無しとして、勢至堂の奥字岩崎という所に堤を造って水を蓄え、官軍通過持には堰を切って谷水を流して大洪水とする計画と、鹿ノ平という所では山を削って断崖を造り、その上に塹壕を築き、多くの石を蓄え、大筒二門を備え付けた。大筒は練習と称して時折轟音を轟かせたという。塹壕跡は今でも残っている。

一方、①の路線は道幅も広く、西郷の熊倉から田ノ沢を経て羽鳥に至る線と、白河から羽太を経て羽鳥に至る二線がある。いずれも太平が分岐点となることから、太平口の防備は厳重なものとした。会津軍は羽鳥・大平・大槻・田良尾・湯本の農民に鉄砲や刀を与えて、にわかづくりの会津兵として大平口の防備に当たらせたという。会津軍が白河での戦いに惨敗して、会津へ引き返そうとした東軍は、官軍の大平口通過は必至とみており、羽鳥・大平の全戸に対し、麻幹や萱を自家の軒下に重ねさせ、老若女どもは現羽鳥小学校裏山の萩ノ倉山に疎開させた。東軍の命令によって一斉に火が放たれ、二つの集落はまたたく間に紅蓮の火の海と化してしまった。同様にして湯本も全焼したが、二軒だけ焼け残ったという。民家を焼いたのは、官軍が通過の折、休み場や泊まり場になることを拒んでの西軍の策略であった。

しかしながら、西軍は①~④のいずれの道も通らなかった。のみならず、④が西軍の凱旋のための帰路をなったことは、まことに皮肉ともいえよう。それにしても、萩ノ倉山や湯本の前山に疎開して、先祖伝来の家屋や文化財が灰と化していく有り様をわが目で見ていた農民の心やいかにと思うだに心が痛む。

天栄村観光協会(役場産業課内)

2012年6月27日水曜日

羽鳥ダムになるまで(その2)




矢吹が原は平坦な地だがそこを流れる隈戸川、釈迦堂川は河床が低く農業用水としては難しかった。


明治時代、政府の士族授産のための本格的な開墾が始まり、矢吹が原の十軒原に二戸、八幡原に三戸の士族が入植した。御料地だったため明治十三年に宮内庁開墾所が六軒原(鏡石町)に開設、独自に開墾が進められることになったが、用水の不足で思うように進まなかった。


ようやく矢吹が原の開墾事業が具体化したのは、昭和九年に矢吹が原御料地の払い下げが決定した後だった。

昭和十一年に矢吹が原開墾事務所、昭和十六年に農林省矢吹原国営開墾事務所が設置され、本格的な国営開墾事業がスタートした。


途上、太平洋戦争により一時中止、戦後は食糧不足解決のため再び灌漑用ダム早期築造が要望され昭和二十一年に羽鳥ダム工事が開墾事業と共に着手された


政府は、緊急開拓事業実施要領を定め大規模な土地改良事業を進め、矢吹ヶ原開墾事業は国営、県営、耕地整理組合営に分けて事業が進められた。矢吹ヶ原開墾事業と共に入植が進み、昭和31年に羽鳥ダムが竣工し、昭和39年国営開拓建設事業所が閉所までに基幹工事が完成した。


羽鳥ダム・羽鳥疏水の通水が開始されると一面の荒野であった矢吹ヶ原台地に1,500haの美田が誕生し、矢吹ヶ原台地は緑豊かな田園の地に生まれ変わり、多くの人が生活をする街になった。


羽鳥疏水の改修工事

羽鳥疏水の基幹施設は、完成から約半世紀の歳月を経て老朽化が進み、全面改修を目的に、平成5年3月に東北農政局隈戸川農業水利事業所が開設され、改修工事が施工された。工事施行後、社会情勢の変化などに合わせて事業計画の一部を見直し、計画変更の手続きが進み、平成22年度(平成23年3月)の完成の予定で工事が進められていた。


平成23年3月11日に東北地方太平洋沖地震発生し、ダム堤体の亀裂や沈下、パイプラインの沈下や継ぎ目の損傷等、水利施設の一部が被災し、農業用水の通水が不能となり、平成23年度の作付が困難となった。


平成23年7月15日に災害復旧事業に着手し、パイプラインの変状区間は布設替、継手損傷箇所は内面から管更正を行った。ダムについては沈下・亀裂の範囲を撤去して再盛立するとともに、下流に盛土を行い安定した構造で復旧

した。


(矢吹町webサイト、矢吹原土地改良区サイトより一部抜粋しました)

羽鳥ダムになるまで(その1)








現在の福島県西白河郡から岩瀬郡にわたり「行方野」といわれた原野だった矢吹が原。明治時代は宮内庁の御猟場として、戦中は陸軍の飛行場として利用された時代もあった。

今でも矢吹町内の大池公園付近や矢吹中学校付近にその様子が垣間見れる場所が残っている。

特に、大池公園の入り口にある「雉子塚」に当時の様子が浮かぶ。この「雉子塚」であるが、書は「光永星郎」とあるが電通の初代社長である。お得意先を連れて伺った様子も社内資料に残っているとも聞いたことがある。


長年旱害などの凶作などに悩んでいた矢吹ヶ原台地は荒れてやせていた原野だった。時折「水争い」により血を流して水を争う事件もあったそうだ。


近隣の郡山が安積疎水により大きく発展していったのもこのころであろう。オランダ人技師ファン・ドールンのもと、1879年(明治12年)より5年の短期間で安積疏水を開通させ、当地を一大穀倉地帯に変えた。


矢吹町大和内の庄屋の次男として生まれた星吉右衛門は、安積疎水明治18年「西水東流」を構想した。「西水東流」は会津側に西流する鶴沼川を羽鳥村四日原で堰止め、水流を充満して矢吹ヶ原へ東流するという構想だった。この構想は多額の費用などの問題があったようで、すぐに実現することはなかった。

(矢吹町webサイト、矢吹原土地改良区サイトより一部抜粋しました)

2005年1月1日土曜日

慶応4年7月1日(1868年)土方と別行動の時の、新選組の動き




土方と別行動の時の、新選組の動き



慶応4年7月1日(1868年)


新選組、羽太村(西白河郡西郷村)から出陣。

再び白河奪還戦を試みるが、羽鳥村(岩瀬郡天栄村)まで敗走する。


羽鳥は、会津若松と白河を結ぶ街道の一つ「大平口」として要所の一つに数えられ、戊辰戦争の際には実際に兵が配置されていたそうな。

新政府軍(西軍)の侵略を警戒した会津藩からの命令を受け、羽鳥・湯本の村人達は集落に火を放ち、近隣の山々へ逃げ隠れたと言い伝えられている。この際に、ほぼすべての家屋が消失してしまったそうだ。