2012年6月27日水曜日

羽鳥ダムになるまで(その2)




矢吹が原は平坦な地だがそこを流れる隈戸川、釈迦堂川は河床が低く農業用水としては難しかった。


明治時代、政府の士族授産のための本格的な開墾が始まり、矢吹が原の十軒原に二戸、八幡原に三戸の士族が入植した。御料地だったため明治十三年に宮内庁開墾所が六軒原(鏡石町)に開設、独自に開墾が進められることになったが、用水の不足で思うように進まなかった。


ようやく矢吹が原の開墾事業が具体化したのは、昭和九年に矢吹が原御料地の払い下げが決定した後だった。

昭和十一年に矢吹が原開墾事務所、昭和十六年に農林省矢吹原国営開墾事務所が設置され、本格的な国営開墾事業がスタートした。


途上、太平洋戦争により一時中止、戦後は食糧不足解決のため再び灌漑用ダム早期築造が要望され昭和二十一年に羽鳥ダム工事が開墾事業と共に着手された


政府は、緊急開拓事業実施要領を定め大規模な土地改良事業を進め、矢吹ヶ原開墾事業は国営、県営、耕地整理組合営に分けて事業が進められた。矢吹ヶ原開墾事業と共に入植が進み、昭和31年に羽鳥ダムが竣工し、昭和39年国営開拓建設事業所が閉所までに基幹工事が完成した。


羽鳥ダム・羽鳥疏水の通水が開始されると一面の荒野であった矢吹ヶ原台地に1,500haの美田が誕生し、矢吹ヶ原台地は緑豊かな田園の地に生まれ変わり、多くの人が生活をする街になった。


羽鳥疏水の改修工事

羽鳥疏水の基幹施設は、完成から約半世紀の歳月を経て老朽化が進み、全面改修を目的に、平成5年3月に東北農政局隈戸川農業水利事業所が開設され、改修工事が施工された。工事施行後、社会情勢の変化などに合わせて事業計画の一部を見直し、計画変更の手続きが進み、平成22年度(平成23年3月)の完成の予定で工事が進められていた。


平成23年3月11日に東北地方太平洋沖地震発生し、ダム堤体の亀裂や沈下、パイプラインの沈下や継ぎ目の損傷等、水利施設の一部が被災し、農業用水の通水が不能となり、平成23年度の作付が困難となった。


平成23年7月15日に災害復旧事業に着手し、パイプラインの変状区間は布設替、継手損傷箇所は内面から管更正を行った。ダムについては沈下・亀裂の範囲を撤去して再盛立するとともに、下流に盛土を行い安定した構造で復旧

した。


(矢吹町webサイト、矢吹原土地改良区サイトより一部抜粋しました)

羽鳥ダムになるまで(その1)








現在の福島県西白河郡から岩瀬郡にわたり「行方野」といわれた原野だった矢吹が原。明治時代は宮内庁の御猟場として、戦中は陸軍の飛行場として利用された時代もあった。

今でも矢吹町内の大池公園付近や矢吹中学校付近にその様子が垣間見れる場所が残っている。

特に、大池公園の入り口にある「雉子塚」に当時の様子が浮かぶ。この「雉子塚」であるが、書は「光永星郎」とあるが電通の初代社長である。お得意先を連れて伺った様子も社内資料に残っているとも聞いたことがある。


長年旱害などの凶作などに悩んでいた矢吹ヶ原台地は荒れてやせていた原野だった。時折「水争い」により血を流して水を争う事件もあったそうだ。


近隣の郡山が安積疎水により大きく発展していったのもこのころであろう。オランダ人技師ファン・ドールンのもと、1879年(明治12年)より5年の短期間で安積疏水を開通させ、当地を一大穀倉地帯に変えた。


矢吹町大和内の庄屋の次男として生まれた星吉右衛門は、安積疎水明治18年「西水東流」を構想した。「西水東流」は会津側に西流する鶴沼川を羽鳥村四日原で堰止め、水流を充満して矢吹ヶ原へ東流するという構想だった。この構想は多額の費用などの問題があったようで、すぐに実現することはなかった。

(矢吹町webサイト、矢吹原土地改良区サイトより一部抜粋しました)